キャプテンコラム4月号「充実さって何なのさ?!」社員コラムより
充実した生き方とはいったい何なのか、最近よく考えます。
「充実」と聞くと、なにか完璧なことを想像しますよね。
仕事もプライベートも、予定を入れてスケジュール通りにこなしていく。
かっこよすぎて憧れます。
私も休みの日なんかは、
どうしてもベッドから出られないなんてこともありますからね……
しかしどれほどの人がそういった「充実」した日々を送れるのか。
そもそも充実ってなんなのか?
みなさん充実してますか??
はい、しています!と自信を持って手を挙げられる方は素晴らしいです。
ここでブラウザを閉じてもらって構いません。
しかし手を挙げられなかった、
充実した日々を送れていない同志の方、
悲しまないでください。
今回は私が発見した、
確信をもっておすすめできる充実した日々の過ごし方を紹介します!
まず、好きことをしているとき、これはみなさん充実できていますよね。
僕も写真が好きで外によく撮影をしに行っています。
では、それを仕事にしようと思ったら?
実はここで落とし穴にはまることになります。
「好きなことを仕事に」とよく言われますよね。
私も以前のコラム(2023年10月号)でもそう書きました。
しかし、これは必ずしも充実にはつながりません。
なぜか?
それは例えば音楽が好きだから、音楽業界に行くようなもので、
音楽業界に就職できたとしても、
音楽と関係のない部署に行く可能性もあるからです。
本当はいろんなアーティストとかかわって仕事をしたいのに、
実際は他社への営業をして、自分がやりたかったことと違うな……、
と思い悩んでしまうことはよくあります。
では、好きなことをしているときの
充実した時間をもう少し考えてみましょう。
なぜその時間は充実しているのでしょうか?
自分のやりたいことができたとき、
苦もなくずっと続けてしまいますよね。
そして終わった後には達成感があったり、
もう少し続けていたいなとおもったりします。
ダラダラして気づいたら夕方になっているような時間よりも
ずっと充実した時間を過ごした気持ちになれます。
なぜ充実したと感じるのか?
それは自分の感情に従って
行動しているからだと私は考えています。
感情の赴くままに行動する。
これ以上の幸せはなかなかありません。
そしてもし、自分の仕事のなかで
その感情を活かすことができたら、
日々が充実するとは思いませんか?
仕事と聞くと、
「こうあるべき」といったことがたくさんあると
思ってしまいますよね。
感情を押し殺さないといけないと
思う方もいるかもしれません。
もちろんルールはありますが、
ときには自分の感情を優先して、
好きなことを仕事に取り入れたら
とても楽しそうではないですか?
私も、写真撮影という好きなことを
仕事に取り入れました。
教室の雰囲気をもっと知ってもらうために、
塾を探す保護者様向けのパンフレットや、
講師応募の求人票に自分が撮った写真を入れて作成しました。
持っていた一眼レフで教室の中を撮影するのも、
この仕事でなかったらできませんでしたから非常に新鮮でした。
他にも、私はコラージュが好きで、
シールや折り紙を使って画用紙に貼り付けて
おしゃれにデコレーションしたりします。
それを活かして、塾生のお友だち紹介用のカードを
アレンジしたこともあります。
子どもたちが喜んでくれるかなと思って作るのも楽しいものです。
私たちはどうしても、
こうあるべきといった「型」にはまりやすいです。
例えば、「自然な演技」と聞いたときに
みなさんはどういった演技を思い浮かべますか?
多くの人が日常の動作のことを想像すると思います。
ですがそれも「型」です。
コーヒーカップをつかむ動作一つ取っても、
コーヒーカップという概念の「型」にはまっているから、
それをつかむための動作をするのです。
もし「それを取る」という本能的な行動と取ったとしたら、
カップの取っ手を指先でつかむということはないです。
このことについて、
三島由紀夫が非常に興味深いことを述べていたので引用します。
「われわれが机上の煙草やコーヒー茶碗へ
わけもなく手をのばしてそれをつかむのは、
begreifenするのは、つまりコーヒー茶碗や煙草といふ概念(Begriff)の世界に
安住してゐるからこそできるわけであり、
われわれが自然の動作と考えているものは、
実は、[…]馴れ合いのヴェールをかけたうえで、
日常動作の一種の馴れ合ひ的儀式を行ってゐるわけだからである。
[…]われわれの日常動作こそ儀式的であり、
前衛舞踏的、小児痲痺的動作こそ、言葉の真の意味において、
「自然な動作」であるのかもしれない。」
————三島由紀夫「前衛舞踏と物との関係」
三島は、いわゆる健常者たちの動作を、
概念の世界に安住した者の馴れ合いの儀式としています。
一方で、小児麻痺患者のような動作が
本能に従っているからこそ「自然」なのだと述べています。
「自然な演技」という言葉も、
実はもともと日常動作を指すものではなかったです。
英語で「自然」はnature(ネイチャー)といいますが、
これはフランス語のnature(ナトゥール)から来た語です。
また、このnature(ナトゥール)は、
フランス語のnaître(ネートル)からの派生語です。
naîtreとは、「生まれる」という意味を持った動詞です。
そのため17世紀フランスの「古典主義演劇」と言われた演劇では、
自然な演技と言われた際に、生まれたばかりの赤ん坊のような
声を出すことを指しました。
当時の悲劇では、普段喋るように演技するのではなく、
叫ぶようにセリフを述べていたと言います。
私たちの時代の演劇とはだいぶ異なりますね。
こうして時代を遡ってみると、
型にはまることが必ずしも正しいことではなく、
むしろ人間の本質的なものを妨げてしまうように思います。
ナレッジシードの理念には
「『本来の自分』で生きる経験を分かち合い
『真の学び』に貢献する」とあります。
また、
「固定概念や既存の回答に縛られず
自らの卓越した解を追求します」ともあります。
本来の自分で生きること、
固定観念や既存の回答に縛られないこと、
まさに充実した日々を送るために大切なことです。
みなさんも就職したら、
あるいはアルバイト先などで自分の感情に従って、
いままでとは違ったことをしてみたら面白いかもしれません。
それは、メニュー表をアレンジしてみたり、
SNSでお店の宣伝をしてみたりといった小さなことでもいいのです。
まずは自分のやりたいことを考えてみる。
そしてそれを仕事に活かしてみる。
一見、相反するものにも思いますが、
「型」というものは変えられないからこそ、
「型」とそこからの逸脱を繰り返していって
その枠を広げていくのです。
型にはまらないことで、
自分を大切にすることができ、
充実した日々を送れます。
それに今までは思いもしなかったような
新しいアイデアを出せたり、
大きな発見をしたりすることもできます。
これは一石何鳥なんだろうか……