キャプテンコラム9月号「発達障害は擬態する!?①/社員コラムより」

ディーエンカレッジ千葉キャンパスが開所して、5か月が経ちました。利用者さんも続々と増え、またお問い合わせもたくさんいただいており、これからがとっても楽しみです!

 ディーエンカレッジには、発達障害を抱えている方が多くいらっしゃいます。主に注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉スペクトラム症(ASD)、限局性学習症(SLD)の方が来られます。キャンパスに来ているときはみなさんそれぞれの目標に向かって励んでいて、例えば、就活のための準備をしたり、日常会話ができるようにコミュニケーションを学んだりなど、少しずつですが自分たちが納得できるまで精いっぱい努力しています。

発達障害者は一般的に、その特性によって苦しんだり、あるいは特性を生かして社会で活躍したりすることもあると言われています。ですがほとんどの場合、健常者(発達障害や他の疾患の診断を受けていない人を指します)と感覚が違うために、周りの人と違和を感じることで深く悩んでしまいます。そこで、普通になるにはどうしたらいいか、仲間外れにされないためにはどうすべきか考えてから行動して適応しようとします。これは発達障害の界隈では「擬態(ぎたい)」と呼ぶそうです。

「擬態」については、『発達障害者は〈擬態〉する——抑圧と生存戦略のカモフラージュ』に詳しく載っています。今回と次回に続くコラムではこの書籍を参考にして、発達障害者の擬態を考えてみましょう。

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発達障害者は〈擬態〉する——抑圧と生存戦略のカモフラージュ

 ところで、なぜ発達障害者の擬態を考えるのか? という疑問を持つ方も多いと思います。発達障害の診断を受けたり、実際に発達障害の当事者と関わったりしていないと、自分にはあまり関係ないように感じますよね。

 しかし発達障害者のしている擬態と似たような行動は、ほとんどの健常者もしているのではないかと思います。それによって受けるストレスも、度合いは異なったとしても共通することがあるにちがいない。だからこそ擬態について考えることは、より良く生きるために健常者にとっても重要なことだと考えます。

 というわけで擬態について考えていきますが、そもそもとして誰しも必ずどこかで仮の自分を設定してそれをうまく演じているように思います。例えば、家にいるときの自分、学校にいるときの自分、職場にいるときの自分、すべてが同じだと言えるでしょうか? 大学の友達とふざけあったりするのと同じように、職場の上司とかかわりを持つということはあまりないと思います。逆に職場で上司や顧客に丁寧に接するように、友達と遊ぶときもかしこまった話し方をしたりはしないと思います。それは、そういった振舞いが適していないとわかるからです。

私たちは会社や学校などどこかのコミュニティに属すると、そこに適した振舞いをしようとします。なぜそうするかというと、そのほうが摩擦が少ないし、そこにいる大多数の人が快適に過ごせるからです。社員同士で必ずあいさつをする会社で、一人だけあいさつをしていなかったら間違いなく注意されてしまいます。集団で生活するにはそこの慣習に従うという暗黙の了解があります。「郷に入っては郷に従え」という言葉もあるくらいです。

つまり私たちはその場その場においてある種の正しさを自分の中に内化し、家での自分、学校の自分、会社の自分を使い分けているわけです。この使い分けはもっと少ない人もいるかもしれませんし、知人ごとに分けていてもっと多くなっているという人もいるかもしれません。この意味で、私たちは仮面を被っていると言えるし、二面性があるとも言えます。「二面性」というと、悪い意味のように思えますがそんなことはありません。時と場所によって適した行動をしているという意味です。

「仮面」や「二面性」という言葉からさらに言えば、私たちは常に演技をしているとも言えます。周囲の人を見て、適切とされる行為を演技する。古代ギリシャではアリストテレスが『詩学』において、人間は本質的に模倣し、また模倣を好み模倣によってものを学ぶと述べました。日本語でも「学ぶ」という言葉の語源は「真似ぶ(まねぶ)」、つまり「真似をすること」が由来しています。つまり真似をすることでそこでの振舞い方を学んでいるのです。

これらのことから、私たち人間というものは、演技する動物であると言えるかもしれません。コミュニティごとに適した振舞いや望ましい言動を見たりあるいは想定したりし、それを模倣する(=演技する)。そうすることでそのコミュニティから受け入れられ生活が可能になっていく。それはそこでの自分の立場の確保や、またコミュニケーションを円滑に進められるといったメリットもあり、コミュニティにうまく適応するということが非常に重要なのだとわかります。多くの場合、自分の過ごしやすいコミュニティに属してそこで生活をしますが、しかし人によっては演技することがストレスになり、だんだんと精神的に辛くなることもあります。

例えば優秀な人間として過ごしていたら、学校で問題を間違えたり、会社であれば予定を忘れていたりといった、ささいなミスによって心にずきりとヒビが入ることがあります。自分の中で築き上げた理想とそれを(無意識的に)演じている自分、そしてその優秀さこそがその人自身であると信じる周りの人々。このような形式ができてしまうことで、一つのミスが、自分を自分たらしめるアイデンティティとしての「優秀さ」に傷を入れてしまうでしょうし、また周りからの評価を低いものに変わらせてしまうでしょう。このように内的にも外的にも精神的なストレスが生じてしまうこともあります。

ほかの例でいえば、明るいお調子者のムードメーカー的な存在として職場で過ごしていたら、暗い表情は出しづらくなってしまうということもあるでしょう。周りの人から、いつもは明るい人なのにと心配されるので、普段の調子を無理に繕おうとしてしまうこともあります。そうすると本当は体調が悪かったり悩み事があったりするのに、周りを心配させたくないから、迷惑をかけたくないから、と我慢をしてもっと悪化させてしまいます。

これから新社会人として働く人も転職をして新しい職場に行く人も、その環境に合わせて新しい仮面を被る人は多いかもしれません。でも、その仮面に固執しすぎると辛くなってしまいます。退職理由で最も多いものの一つに、「人間関係」があるように、その環境にうまく溶け込もうとすればするほど体力を消耗してしまう人もいます。

自分のキャラや会社の人間関係以外でいえば、とくに営業職や接客業に多いですが、「営業スマイル」や「営業トーク」と呼ばれる“営業”と名のつく行為を顧客と接する時にします。これは営業のための行為ですので本質的に自分がしたいからするというものではなく、そうするのが適しているからするということになります。笑いたくもないのに笑ったり、相手にものを買わせるためにうまいことを言ったり、したいと思っていないのにしなければならないからストレスが溜まってしまいます。

また働いている人に限らず、就職活動(就活)をしている人にも仮面を被る機会は訪れます。就活をすると、その企業に望ましい自分になろうとしてときには無理をしてしまいます。一時期『就活狂騒曲』という日本の就活について風刺的に描いた動画が話題となりました。

就活狂騒曲』(2013)

 

 もちろんこれは誇張的に描いた部分もあるので、ここで表現されていることがすべてその通りであるというわけではありません。しかしYouTubeのコメントには共感の声もあり、まったく理解できないものではないといえます。就活することで生じる苦悩、内定をもらうことの難しさを描いた本作ですが、むしろ注目すべきは主人公の女性がどのようにして就活に適応していったかという過程です。周りの就活生に合わせてスーツを着て、派手なメイクを落とし、笑顔を作る。なぜそうしなければいけないのかよくわからないけど、周りがそうしているからする。必死に溶け込もうとするけれど、不採用のメールで落ち込んでしまう。これはまさに演技をして適応しようするもののそれが難しく、最終的に適応ができないまま体力だけを消耗していくという、演技をして生きる我々だからこそ起こりうることを端的に表現しています。

 営業の例や就活の例は、もちろん営業で働く人、就活生の全員が抱えている問題というけではありませんが、これらの例が示す通り、日本社会においてコミュニティは「こうあるべき」という風潮が強いと言えます。またそこで演技して辛くなったとしても、演技し続けて溶け込もうとするということは、そのコミュニティに溶け込むことができなかった場合その人は排除されてしまうことを意味しているように思います。

 こういうわけで健常者であっても擬態して生きているのではないかと思うのですが、先に挙げた『発達障害者は〈擬態〉する——抑圧と生存戦略のカモフラージュ』においては、発達障害者の擬態の場合はもっと複雑であると述べています。

 発達障害者の生きる感覚とはどういうものなのか、それによってどのように世界を感じているのかを本書を参考にしながら次回のコラムで書こうと思います。本書では発達障害者たちへのインタビューを通して擬態について知ることができるようになっているので、彼らがどのように擬態しているか、そしてどういうふうにして健常者の社会に適応しようとしているかを見ることは、健常者であっても擬態することでストレスを抱える人たちにとって、あるいはこれから社会人となって新たな環境に適応しようとしている人たちにとって、非常に大きな発見になるのではないかと思います。

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