キャプテンコラム11月号「発達障害は擬態する!?②/社員コラムより」
9月号の続きで発達障害者の擬態について、
当事者がどのような擬態をしているのかなどについて書いていきます。
実は『発達障害者は〈擬態〉する——抑圧と生存戦略のカモフラージュ』の他にも以下のような発達障害者のカモフラージュ(=擬態)について書かれた書籍があります。発達障害への研究が進んできたこともあり、出版年が比較的最近のものが多いです。
・『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界; 幼児期から老年期まで』(2021年)
・『カモフラージュ――自閉症女性の知られざる生活』(2023)
・『ASDとカモフラージュ: CAT-Qからわかること』(2024年)
とくに2番目に挙げた『カモフラージュ――自閉症女性の知られざる生活』では、図とともに発達障害について解説されているので詳しくない人でもわかりやすいと思います。
『カモフラージュ――自閉症女性の知られざる生活』(P14~P15)
前回のコラムでは、発達障害の人が擬態するのと、健常者が擬態するのとでは大きく異なるということを書きました。発達障害者の擬態の場合、認識や感覚が健常者とは違っているため、健常者のする擬態よりもさらに複雑になってしまうのです。
認識や感覚について、例えばASD(自閉スペクトラム症)だと、相手の気持ちや感情を理解するのが難しい、マルチタスクが苦手、過去の経験がフラッシュバックする、白黒思考をしてしまう、強いこだわりがある、などがあります。
もちろん健常者であっても相手の気持ちがわからなかったり、マルチタスクができないといったこともあったりします。電話中に他の人から話しかけられて対応できるほどのマルチタスク能力を持っている人はあまり多くないのではないでしょうか。
ですがASDの場合、苦手の度合いが高くそれが原因で仕事を辞めたり、うつ病になってしまったりといったことになってしまいます。マルチタスクの例で言えば、電話しながらメモが取れない、作業の正確さとスピードを両立できないなどです。
このようなASDの特性があるために、擬態が複雑化してしまいます。さらに、健常者であれば、相手やその場の雰囲気に合わせることはストレスにはなりますが、どういうふうにすればいいかがわかるのでできなくはないです。一方でASDの場合、相手の“気持ち”や場の“雰囲気”というものがそもそも理解できないことが多い。加えてメタ認知(自分の言動を客観的に捉えてどんな言動が適切なのか考えて改善する能力)も苦手ですから、自分の言動が相手にどんな感情を抱かせているのかもわからない。だからこそ、ASDの人にとって擬態は健常者よりも難易度が高いと言えます。
ここではASDの例を挙げました。また、先に挙げた3冊の書籍のタイトルからもわかるように、カモフラージュはとくにASDにおいてみられる特徴だとしばしば言われてきました。また、男性よりも女性の方がカモフラージュしやすい傾向があるとも言われています。
ですが『発達障害者は〈擬態〉する——抑圧と生存戦略のカモフラージュ』においては、ASDや女性だけでなく、ADHD(注意欠陥多動症)やSLD(限局性学習症)の当事者たちも、そして男性やノンバイナリー(男女とは異なる性別を自認する人)もカモフラージュしているといいます。理由は、ADHDにもSLDにも各々の特性があり、また性別においても抱える生きづらさはそれぞれで異なるからです。
では、発達障害者はどのように擬態しているのか、『発達障害者は〈擬態〉する』の中には11人もの当事者の体験談が語られています。当事者が擬態についてどのような考えを持っているのかというと、例えば第6章の30代の男性(ASDとADHDを診断されている)は、「小学校時代は、まあまあ素のじぶんを出していましたが、高学年からはじぶんを偽って「擬態」をしていたと思います。不注意が多くて、騒がしくしていて叱られることも多かったので、礼儀正しくすることでじぶんを粉飾しようとしたんです」と言います。また、第8章の50歳の男性(ASDとADHDを診断されている)は、「僕は「擬態」を、仲間外れにされないようにやるものだと思っています」や「「擬態」は抑圧だと思っています。じぶんを抑えながら、死んだような気持ちになって仕事をしていました」と言っています。
実際にどのように擬態していたかを、第7章の40代の女性(ASDを診断されている)が具体的に述べています。
[小学校の]三年生から六年生まで同じ女の先生が担任になって、その時代の影響がずっと残りました。先生は母に近い年齢で、神経質なところも似ていました。イライラしていることが多くて、彼女が怒っているのを見るのが嫌だったから、先回りして意図を汲みとって、対応するようになりました。[…]そうしたらお気に入りの優等生みたいな扱いになって、学級運営を任されるようになりました。あと、学校の先生が贔屓してくれると、私のことを「子どもらしくない」って可愛がってくれなかった母が態度を変えることに気づいたんです。ですから、先生に気に入ってもらうために、先生が仕切っている空間では、明るい優等生みたいな印象になるよう注意しました。先生が何を求めているかを必死で考えて、それを満たすように行動しました。ほかの子が私の言動を真似てやると、先生の意図からずれてしまって、先生の機嫌が悪くなるので、それを取りつくろったりもしました。(P125-P126)
どの当事者のエピソードも実際に読んでみると、周りの期待に応えたり、変なやつだと思われないように行動したりしているのが共通しています。それで失敗する人もいれば、順調に擬態し続けられる人もいる。ですが両者とも素の自分を出せないままなのでストレスが溜まり続けてしまいます。世の中で生きることはある程度の器用さも必要なのだなと思わせられますし、その器用さを持っているのは「定型発達」と言われる健常者たちが大半を占めるのだと思います。
社会に適応できないまま無理して頑張っているのは確かに辛いし、多くの人が失敗を繰り返しながら上手く立ち回っているのだと思います。ですが一方で、自分の居場所を探して、擬態をしないで済む生き方を見つける人もいます。先に挙げた第8章の50歳の男性は、「この二、三年のうちにいろんな対話の実践会に参加するようになって、変わった人でも受け入れてもらえるところに行けばいいやって考えるようになりました。対話を重ねていると、じぶんのことがどんどん見えてくるし、発見がたくさんあって、楽しいって感じるんです。生きてるって感じがするんですよね」と言います。
この男性のようにみんなが自分の居場所となるような場所を見つけられればいいのですが、見つけるまで時間がかかるでしょうし、結局見つからないということもあるでしょう。見つけに行くのも大事ですがもっと重要なことがあります。それはこの男性の「変わった人でも受け入れてもらえるところにいけばいいや」という考え方です。これは発達障害者でなかったとしても参考にできそうです。なぜなら自分で自分のことを変わっていると思っていても、ほかの人もそう思うとは限らないからです。自分のことは自分が一番わかっているとよく言われますが、人から見た自分は全然印象が違うんですね。それに変わっていたとしても、面白いと思ってもらえたらラッキーですし、変わってるなと思われても、仕事が出来たり真面目なところがあればギャップになります。
逆に、素の自分を出したときに、周りから、そんな人だとは思わなかった、と言われることもあるかもしれません。ですがこういったことを言われたとしても深く傷つく必要はありません(もちろんあまり言われたくないですけど……)。結局のところ、人の印象というものはその状況ごとだったり、周りの人が自分にどんな期待を寄せているかだったりによって変わります。だから過剰に人に合わせようとするのは、世渡りは上手くなるだろうけれど、メッキは剥がれるものだし、ストレスも溜まるので、それなら素で生きてみてもいいのではないかなと思います。
こういったテーマで、芦田愛菜さんが良い言葉を残しているので最後に引用して終わります。この言葉は、映画『星の子』の記者会見で、記者から「信じる」ことについて質問を受けた芦田さんの発言です。
「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられること』なのかなって思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」